世界中におなじみの炭酸飲料。この炭酸飲料はどのように日本にやってきて広まったのでしょうか?今回は日本の炭酸飲料の歴史ついて紹介したいと思います。
炭酸はどこから来たの?
日本にはどのように炭酸飲料が入ってきたのでしょう。
日本の炭酸飲料の歴史は幕末の開国から始まりました。
1853年(嘉永6年)黒船来航!レモネードがやってきた!
ペリー提督率いる黒船が浦賀に来航。この時、その船員の飲物として炭酸飲料のレモネードが日本に伝来したと言われています。この『レモネード』が訛って伝わったのが『ラムネ』の語源です。
1868年(明治元年)シャンペン・サイダー登場
外国人居留地で設立されたノース&レー商会が製造販売を開始。パイナップルとリンゴのフレーバーをつけた炭酸飲料である「シャンペン・サイダー」を製造しました。しかし、このシャンペン・サイダーは在留外国人向けの商品だったため、上流階級や特権階級以の人は飲むことが出来ませんでした。ノース&レー商会は炭酸飲料の製造のための機械・びん・原材料を日本に輸入して製造していました。
1886年(明治19年)国産スパークリングミネラルウォーター発売
1884年(明治17年)兵庫県川西市の天然鉱泉・平野水が名鉱泉として紹介され、これを飲料用にビン詰にし始めます。1886年(明治19年)に「三ツ矢平野水」という商品名で発売されます。これが純国産のスパークリングミネラルウォーターになります。大正の中頃に、平野駅北部一帯には東洋一の規模といわれた清涼飲料水工場があり、少し後に平野水は加工され「三ツ矢サイダー」となります。
三ツ矢平野水は夏目漱石の「行人」にも登場、1897年(明治30年)に、宮内省から大正天皇の御料品に指定されます。まだまだ世間一般の人達の飲み物ではありません。
1899年 (明治32年)国産サイダー・金線サイダー登場!サイダーが庶民に!
横浜扇町の秋本己之助がノース&レー商会に勤める西村甚作の助言で作った「金線サイダー」を発売します。このとき、シャンペン・サイダーと異なりリンゴのフレーバーのみ使用したことから、シャンペンの名を除いたサイダーという商品名になったとされています。『サイダー』の語源の『シードル』はリンゴ酒のことです。
1904年(明治37年)王冠を使用したサイダーが本格流通・長崎でもサイダー販売
横浜では王冠を使用した瓶入りの『金線サイダー』が日本で本格的に流通します。これまではビー玉栓のラムネ瓶をしようしていました。このあたりから炭酸飲料の呼び名が分かれてきます。ラムネ瓶を使用した飲料は「ラムネ」、王冠を使用した飲料は「サイダー」となります。
一方、長崎ではギリスの実業家ロバート・ニール・ウォーカーが「BANZAIサイダー」を販売し始めます。
1907年 (明治40年) 三ツ矢サイダーのご先祖様「三ツ矢印 平野シャンペンサイダー」登場!
三ツ矢平野水とそれをベースにした三ツ矢サイダーが登場します。当時は砂糖やカラメル、イギリスからのフレーバーを平野水に加えて「三ツ矢印 平野シャンペンサイダー」と言う名称で発売。2年後の1909年に「三ツ矢シャンペンサイダー」となります。
1925年(大正14年)には、三ツ矢サイダーと金線サイダーは製造会社の合併により兄弟銘柄となり、その後三ツ矢サイダーのみが残されました。三ツ矢サイダーは日本初のサイダーの歴史を受け継いでいる商品とも言えます。現在の「三ツ矢サイダー」の名称になるのは1968年(昭和43年)からです。
1910年(明治43) 輸入コーラ登場
コーラの日本での製造は1952年(昭和27年)からです。サイダーと異なり、国産までに随分時間がかかっている感じですが、戦争があったことを考えると自由にコーラが生産できるまで生産現場にかかわる人々は大変だったことでしょう。当時、コーラは限られた場所での販売となっていたそうで、今と違い大人の飲み物という特別感がありました。
さいごに
開国後、外国人居留地から始まった日本の炭酸飲料の歴史。自分たちの手で炭酸飲料を作ろうとした人々の情熱と努力のおかげで、現在私たちは自由に好きな飲み物を選んで飲めます。これから炭酸飲料がどのような進化を辿るのか、とても楽しみですね。